幸せが嫌い(幸せの重心73話)
「幸せとは喜怒哀楽の調和である」というコンセプトで連載をしているマンガ「幸せの重心」(石川善樹さん・ワタベヒツジのtwitterアカウントで連載中)
このnoteではマンガの先読みと、マンガの中で触れたことについて、少し掘り下げ、僕なりに感じたことを書いたりしています。
過去のnoteについて
この物語のスタート地点はこちら→0話「幸せとは喜怒哀楽の調和である」
前回のお話はこちら→72話「泣きにくい」
*過去のnoteは全て、マガジン「ヒツジゴヤ」内で読むことができます。
ウェルビーイング
善樹さんが本を出した。ウェルビーイングについての本だ。
幸せの重心のテーマにも関係してくる「ウェルビーイング」というワードについて善樹さんは“はじめに“でこう書いている。
ウェルビーイングとはどういうもので、幸せとはどう違うのか。そうした疑問にはひとまず目をつぶり、自分が「よい」と思える状態がウェルビーイングだと考えてください。
ウェルビーイングというのはなかなかに懐の広い言葉だな。自分が良いと思えればいいのだから。
幸せの重心というマンガを書いていながら、僕は「幸せ」という言葉になんだか抵抗がある。“しあわせ“というとなんか歯が浮くような言葉だなと思う。
それは、僕の中に“幸せ=常にハッピーでポジティブな状態“みたいなイメージがあるからだと思う。そんなニュアンスが“幸せ“に含まれている気がして抵抗を感じる。
人生が幸せだと言っている人を見ると「嘘をつけ!!!」と不幸せそうな部分を見つけ出して白状させたくなる。
そんな“幸せ“を疑いまくっている僕にとっては“よい状態“というのはスッと飲み込める最高な言葉だなと思う。力みがなく、自然なニュアンスがある。
幸せ=ポジテイブ・不幸せ=ネガティブという極端な価値観の中で、幸せであろうとする必要はないのだ。
ポジテイブであろうがネガティブであろうがよければいいのだ。
18世紀までの西洋の価値観では多少悲観的な人生観がよいとされていたらしい。その時代に生まれていたら、悲観的でないことに悩む人が出てくるだろう。
人間、何をよいとするかは意外とすぐに変わってしまう。
だとしたらネガティブなタナカにも幸せになるチャンスが見えてくる。
今週の幸せの重心
ポジティブすぎる上司ブル山に褒められるが、全然嬉しくなさそうなタナカ。
ポジティブなブル山とネガティブなタナカは水と油のようだ…
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